第五十八回目 佐藤春夫の「酒、歌、煙草、また女」


○「秋刀魚の歌」で有名な佐藤春夫に、学生時代を懐古した詩がある。七五調の調べは古風だが、この古風さは佐藤春夫の詩のスタイルとしてずっと一貫していたらしい。萩原朔太郎がこの点を難じた文を公表したとき、「貴君は僕の詩を目して十年以前のものだと言はれた。が十年以前のものは寧ろ貴君のものであり、僕のものは多分三四十年以前のものである。」と書いて、自覚的に古風なスタイルで通していることを表明したという(『佐藤春夫詩集』の解説文、神保光太郎「華やかなる風景」による)。
 小説『田園の憂鬱』(大正八年)で、一躍流行作家になっていたという佐藤春夫が最初の詩集『殉情詩集』を出したのが大正十年。朔太郎の『月に吠える』が大正六年。十年古いといわれると明治四十五年くらいの詩風ということになるが、いや自分は明治二十年頃の詩風だといって言い返しているわけで、やはり大正期に日本の詩の口語自由詩への大きな転換が起こったことを示すエピソードだと思う。今だったら君の詩風は十年古い、と言っても言われても何のことかわからないだろう(^^;。


酒、歌、煙草、また女
      ----三田の学生時代を唄へる歌

      佐藤春夫


�kッカス・ホールの玄関に
咲きまつはつた凌霄花(のうぜんくわ)
感傷的でよかつたが
今も枯れずに残れりや

秋はさやかに晴れわたる
品川湾の海のはて
自分自身は木柵(もくさく)に
よりかかりつつ眺めたが

ひともと銀杏(いてふ)葉は枯れて
庭を埋(うづ)めて散りしけば
冬の試験も近づきぬ
一句も解(と)けずフランス語

若き二十(はたち)のころなれや
六年(むとせ)がほどはかよひしも
酒、歌、煙草、また女
外(ほか)に学びしこともなし

孤蝶(こてふ)、秋骨(しうこつ)、また薫(かをる)
荷風(かふう)が顔を見ることが
やがて我等(われら)をはげまして
よき教(をしへ)ともなりしのみ

我等(われら)を指(さ)してなげきたる
人を尻目(しりめ)に見おろして
新しき世の星なりと
おもひ傲(おご)れるわれなりき

若き二十(はたち)は夢にして
四十路(よそじ)に近く身はなりぬ
人問(と)ふままにこたへつつ
三田(みた)の時代を慕(した)ふかな

        『閑談半日』より
        西脇順三郎編『佐藤春夫詩集』〔白鳳社)所収


○この詩が収録されている評論随想集『閑談半日』は昭和九年刊とあるから、佐藤春夫は、朔太郎に十年古いといわれてから十年後も七五調で通しているということになる。この詩は、我が青春を回顧するといった内容で、作品からは、理想の高いばんから学生たちが青春を手放しで謳歌していた時代のおおらかな雰囲気が伝わってくるが、昭和九年といえば、こういう感覚ももう同時代のものではなくなっていたはずだ。作者はまだ40前の年齢、そういうところにも「古情を愛した時だけ僕は歌う」と言ったという人の一途さというのがうかがえるかもしれない。




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